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千葉地方裁判所 平成元年(行ウ)2号 判決

原告

小笠原和彦

外一二名

被告

宮間満寿雄

右訴訟代理人弁護士

山田和男

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、千葉県松戸市に対し、四万五四七〇円及びこれに対する平成元年二月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告らはいずれも千葉県松戸市(以下、単に「市」という。)の住民であり、被告は同市長である。

2(一)  被告は、昭和六三年九月二八日から同年一〇月一三日までの間、市役所玄関前に「天皇陛下病気快癒を祈願する記帳所」(以下「本件記帳所」という。)を設置し、市の職員を配置して記帳に係る事務に従事させた。

(二)  市は、本件記帳所の設置に関して、別紙計算書記載のとおり合計四万五四七〇円を支出した。

3  しかし、右公金の支出は、以下に述べるとおり違法・不当である。

(一) 憲法一条の「象徴天皇の地位は、国民の総意による。」との趣旨の規定は、市が本件記帳所を設置することに法的根拠を与えるものではない。

(二) 市が本件記帳所を設置することにより、公的機関が記帳し祈願したい私的な市民の要望に便宜を計らい、それを援助し、助長し、一定の権威と承認を与えたことになる。

(三) 「病気御快癒」を「祈願」することは、宗教性を帯びた個人の情感の表現であって、当然にすべての市民に共有されるものでないから、本件記帳所を設け、右祈願を受け付ける事務は、公平で、不偏不党であるべき「行政サービス」として行う事務になじまない。

(四) 本件記帳所の設置に関しては、積極的な市民もいるが、反対の市民もおり、意見の一致を見ない事柄であるから、到底公共性を認めることができない。したがって、本件記帳所の設置が普通地方公共団体が行う公共事務に該当するということはできない。

(五) 公職にある人が病気になりあるいは死去することは、公務によって生じたものでない限り極めて私的な事柄である。在位中の天皇が病気により重体になったということは、その点からも判断されるべき事柄であって、天皇家の私事によって、地方公共団体の事務や住民の日常に影響を与えることがあってはならない。

以上に述べたとおり、天皇家の私事を特別に公共性のあることとし、市の公金で本件記帳所を設置し、職員を配置して事務処理に当たらせたことは、憲法前文(国民主権)、一四条(法の下の平等)、一九条(思想及び良心の自由)、二〇条(政教分離の原則)及び九二条(地方自治の本旨)に反し、違法・不当である。

4  被告は、市に記帳所の設置に関する費用を支出させ、市に支出相当額の損害を被らせたから、市に対して右損害を賠償する義務がある。

5  原告らは、昭和六三年一〇月三一日、市監査委員に対し、右違法、不当な公金の支出について地方自治法(以下、単に「法」という。)二四二条一項に基づく監査請求をしたが、同年一二月一七日付けで同委員から、理由がない旨の監査結果の通知を受けた。

よって、原告らは、法二四二条の二第一項四号に基づいて、市に代位して、被告に対し、違法・不当な公金の支出の合計額四万五四七〇円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である平成元年二月一〇日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因に対する認否

(一) 請求の原因1、2の(一)及び5の各事実は認める。

(二) 請求の原因2の(二)のうち、市が本件記帳所設置のために、筆ぺん一〇本(単価四〇〇円)の購入代金四〇〇〇円を支出したことは認めるが、その余の事実は否認する。記帳用紙は、千葉県(以下、単に「県」という。)東葛飾支庁から無償で譲り受けたものであり、記帳台に使用した白布は、市が以前から所有していた物品であって、新たに購入したものではない。また、本件記帳所の設置期間中に記帳受付事務に従事した者は、市の職員及び臨時職員であって、本件記帳所を設置するために雇傭した者はいない。

(三) 請求の原因3の主張は争う。

(四) 請求の原因4は争う。

2  被告の主張

(一) 法二条二項が規定する公共事務は、地方公共団体の固有事務に属し、同条項に例示されているものに限られず、その責任と負担において自主的に取捨選択してこれを処理することができる。本件記帳所の設置は、右の公共事務としてなされたものである。

市は、約二〇〇名の市民からの天皇の病気快癒を祈願するための記帳所を設けて欲しいという要望及び当時の新聞に報じられた県及び県内各市の記帳受付状況等を考慮して、昭和六三年九月二六日に記帳所の設置を望む市民がかなりいると判断し、同月二八日から同年一〇月一三日までの間、市役所内に本件記帳所を設置した。

右期間内の記帳者数は、四二六〇人であった。

(二) 法二四二条の二所定の住民訴訟の対象は、財務会計上の行為に限定され、非財務行為の違法を住民訴訟で争うことはできない。実質的に先行する非財務的行為が後行する財務会計上の行為に向けられたと評価できる場合を除き、先行する非財務的行為の違法性を後行する財務会計上の行為の違法性として主張することは、財務会計上の行為を争う形式を取りながら、実質的には非財務的行為の違法を住民訴訟で争うことになり、住民訴訟制度の趣旨を逸脱し許されない。

先行する非財務行為である本件記帳所の設置は、実質的に後行する財務会計上の行為である公金の支出に向けられたものとは評価することができない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求の原因1、2の(一)及び5の各事実並びに市が本件記帳所を設置するために筆ぺん一〇本を代金四〇〇〇円で購入したことについては、当事者間に争いがない。そして、〈証拠〉並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。

①  全国市長会事務局企画調整室は、昭和六三年九月二二日、各都道府県市長会事務局長宛てに、同月二一日に開かれた都道府県東京事務所長会議において自治省総務課の理事官から「地方団体内に記帳する場所を設置することは、首長の判断で結構」との説明があったことを事務連絡した。

②  県は、同月二二日、「天皇陛下の御快癒祈願に係る記帳の受付」の実施を決定し、同日、県総務部地方課長名で、県内各市町村長宛てにその旨を知らせると共に、県の各支庁長宛てに右市町村長宛ての通知の了知と管内の団体から照会等があった場合における記帳用紙の配布及び祈願署名簿の取りまとめ等についての配慮を求める連絡をした。

③  同月二五日の新聞報道によれば、同月二四日の記帳者数は、県本庁において前日の三倍の二三五二人、県の九支庁及び同日に記帳所を設置した二〇市町村役場において七二二六人であった。

④  市が同月二六日に県内の他の二八市の記帳受付事務の実施状況を調査したところ、佐原市ほか二市を除く二五市が記帳受付を既に実施しているか、近日中に実施する予定であることが判明した。

⑤  市に対して同日までに市民約二〇〇人から電話等で記帳所を設置して欲しいとの要望が寄せられた。

⑥  市総務部庶務課は、同日、国・県からの通達等の指示はないが、市民からの要望が多いので、市民サービスの一環として同月二八日から記帳の受付事務を実施してよいかとの伺いの禀議書を作成して禀議に付した。

市総務部長の佐藤實は、同月二六日、記帳所の設置問題を自らの専決事項とすることについて市長である被告の承認を得た上、同月二七日、専決で右禀議を承認した(ちなみに、市事務決裁規定一〇条によれば、専決事項として別表に掲げられていない事項であっても、その性質が軽易に属し専決事項に準じて処理してもよいと類推されるものは、あらかじめ上司の承認を得て専決することができるとされている。)。

⑦  市は県東葛飾支庁から、表紙に「祈願署名簿」と、扉に「天皇陛下の一日も早い御快癒を心からお祈り申し上げます 千葉県」とそれぞれ墨書し、続いて市町村名と氏名の記載欄を設けることを見本とする記帳用紙を無償で譲り受けた上、市役所の本館一階待合所前(土曜の午後並びに日曜日及び国民の祝日は、新館一階守衛室前)に白布を掛けた長机一脚を置き、その上に右記帳用紙と黒の筆ぺんを用意し、受付員一名(土曜の午後並びに日曜日及び国民の祝日には当直の守衛一名)を配置して本件記帳所とし、毎日午前一〇時から午後四時まで記帳を受け付けた。

⑧  右受付員には、職員及び臨時職員を当て、そのために新たに雇い入れるようなことはしていない。また、本件記帳所に置いた長机は従前から市が所有していた備品であり、白布も従前から市が所有していたものである。

⑨  本件記帳所における記帳者数は、同日から同年一〇月一三日までの間で合計四二六〇人であった。受付事務開始当日には最多の六九八人が、その後も同月二日の九〇人を除くと連日約三〇〇人から約五〇〇人が記帳したが、同月六日に二七五人になり、同月七日以降は、二〇〇人を超えることはなかった。

⑩  県は、同月一一日、翌一二日から支庁での記帳の受付を休止して県庁舎のみで行うことを決定し、同日、県総務部地方課長名で、各市町村長宛てにその旨の連絡をした。

⑪  市総務部庶務課は、同月一三日、県内の記帳受付事務を実施し又は実施を予定していた他の二五市のうち二四市の継続状態を調査したところ、一〇市が既に廃止又は休止しているか休止する予定であることが判明した。

⑫  同課は、同日、天皇の病状も安定してきたので、同月一四日をもって本件記帳所を閉鎖してはどうかとの伺いの禀議書を作成して禀議に付した。

市総務部長の佐藤實は、同月一三日、専決で右禀議を承認した。

二天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるから地方公共団体の多数の住民が地方公共団体に対して天皇の病気快癒を願って記帳所の設置を要望した場合あるいは設置を望んでいることが諸般の事情から明らかである場合において、地方公共団体がそれに応じて記帳所を設置することは、規模、態様、方法等において社会通念上相当な範囲にとどまる限り、たとい設置に反対する住民がいたとしても、権力的にこれらの住民の権利を侵害するものではなく、総じて住民の福祉の増進にかなうものであるから、法二条二項所定の公共事務に該当し、許されると解される。

前記一で判示した事実によれば、市は、昭和六三年九月二六日当時、昭和天皇の病状が深刻化しており、市民約二〇〇人から記帳所の設置の要望があったほか、県内の多数の自治体が記帳所を既に設置し、多数の記帳者がいたことから、市内にも多数の住民が記帳所の設置を望んでいると判断し、住民サービスの一環として、本件記帳所を設置したものである。そして、本件記帳所は市役所内に白布を掛けた長机を置いたものに過ぎず、記帳用紙は、「天皇陛下の一日も早い御快癒を心からお祈り申し上げます 千葉県」と墨書した扉に続いて市町村名と氏名を記入する形式のもので、宗教的色彩はない(記帳用紙の表題は、「祈願署名簿」となっており、「祈願」という用語に若干の宗教的要素を見出すことができるが、本件記帳所の形態及び記帳用紙の趣旨を含めて全体的に考察すれば、本件記帳所及び記帳態様に宗教的色彩を認めることはできない。)。また、市が記帳を強制したこともない。しかも、市が本件記帳所を設置するために支出した公金は、筆ぺん一〇本の購入代金四〇〇〇円のみである。

そうすると、市が本件記帳所を設置した行為は、社会通念上相当な範囲内のものであって、市が行う公共事務ということができるから、原告ら主張の違法はないというべきである。

三よって、原告らの本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判断する。

(裁判長裁判官並木茂 裁判官春日通良 裁判官本間健裕は、転補のため署名・押印できない。裁判長裁判官並木茂)

別紙〈省略〉

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